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古出 隆士 先生 (兵庫医科大学篠山病院副院長)
「杢兵衛さん」を見習い見取る ■医は文字に綴られない詩 自分を「杢兵衛」と称しているお医者さんがいました。農家の生まれで「わしは役人が嫌いや。規則づくめは気にいらん。自分の思ったことを、周りを気にせずやるんだ」という豪傑肌の医者です。がんこでした。けど、庶民を愛した医者でした。 タカ派的な言動でしたが「心に詩をもちなさい。ロマンをもちなさい。医は文字に綴られない詩であり、ロマンです」という面ももった人です。 依藤進という兵庫医大の教授で、私が最も強く影響を受けた先生です。 先生は「医療のオアシス」ということをずっと主張されていました。「患者さんは、華やかで輝いている世界から切り離されて病院に来ている人たちだ。人生の旅の安らぎになり、次の旅への体力と元気を取り戻すいりょうをめざさなければならない」といつも話しておられ、これを医局の運営にも反映されていました。 「有効で適切な治療の方法が見つからなければ、患者さんのそばにゴザをしいて側につき、痛いところをさすってあげなさい。医者が本当にできることはそのくらいのことだ」と若い医師に話していました。 高血圧の研究者で、心臓の機能の測定の研究などに優れた業績を残しておられます。実は、滋賀県で開業医になろうとしていたところを「研究と後進の指導にあたってほしい」と大学にひっぱりだされた、ということです。 診察に当たっては、患者さんの話をとことん聞き続けるという姿勢でした。患者さんの話をさえぎったり、話の腰を折るようなことはありません。「患者さんの話の中に治療のヒントがある」と、私たちに言い聞かせておられました。患者の症状が悪くなると、先生自身も食事が進まず、やせてしまうほど、患者と一体の治療に当たっておられました。 私たちに対しても、じっくり時間をかけて話を聞き、治療のアイデアをだすと「そうか。それはおもろいやないか」と励ましてくれました。「あのなあ、あれ調べてみたら、こんな手もあるやないかな」と、私が忘れていたことでも気にかけ、助言してもらったこともしばしばです。 「朝、出勤したら、一番に気にかかる患者さんのところへ行け。夕方帰るときは見届けてから帰れ」というのが先生の方針であり、医局全体に浸透した日課になっていた。 ■ 八年ほど後、先生がやせ始めました。家ではほとんど食事をされていなかったようです。病院の食堂ではよくちらしずしを食べておられましたが、奥さんには「病院で食べてきたからもういい」と言っておられたようです。腕が細くなってワイシャツの袖との透き間がだんだん大きくなってきました。 昭和五十五年四月に、内科学会に出席するため先生と一緒に東京に行きました。先生は内科学会で発表され、私は循環器学会で発表しました。その合間、日曜日に千葉の犬吠埼灯台に遊びに行ったとき、灯台のらせん階段を上って行くと、先生が息切れしているのが感じられました。 学会から帰って間もない土曜日の午後、医局員一同が集まって、先生に「どうか検査を受けてください」と頼みました。「そうか。ま、しょうないなあ」とうなづかれて、血液検査とレントゲン写真を撮りました。撮影室からフィルムを受け取って、先生のところへもって行く廊下は、とても長く感じられました。 ソファに座っていた先生の前で、シャーカステンにフィルムを掛けました。一同シーンとなりました。口を開かれた先生は「あ、ガンやな。これは有効な治療方法はないなあ。入院せなあかんな。月曜日に入院の用意をする。みんわしにあまりひどいことをするなよ」と言われました。 このとき、私は大きな支えが崩れていくような気がしました。おそらくみんなもそうだったでしょう。 この時点で、師であり上司であり、父でもあるような絶対的な人を失ったような気がしました。 主治医は河合講師(前宝塚市立病院院長)、私はその補佐役ということになりました。検査の指示をする伝票を書き、点滴を担当する係です。 この日を境に、先生は指図のようなことはほとんどされなくなりました。落ち込んで、話をされることもありませんでした。私が思うには、それまでのご自身の仕事や、社会的にいろいろやってこられた活動を中断せざるを得ない、終わりにしなければならないということを考えておられたのだろうと思います。家族に対する思いもさまざまあったことでしょう。 「あと、半年だなあ」とつぶやいておられましたから、残念さと、それを受け入れようとする気持ちが、さまざまあったと思います。 肺ガンの放射線治療が始まって、体力はさらに衰弱していきました。「しんどい」「だるい」と言われていました。 病室のドアの前の名札には「杢兵衛」とだけ書いてありました。面会者を避けるためです。私たちが「名札は出さないでおきましょうか。それとも杢兵衛にしておきましょうか」と聞くと「それもええなあ」と言われたからです。 一カ月が過ぎると、少しずつ話をされるようになりました。ただ互いの気持ちを推し量って、当たり障りのない話でしたが、しかし話題が研究についてふれると目がキラリと輝いていました。気分がよいときは外泊されることもあり、そういう状態が三、四カ月続いたでしょうか。 私の長女が生まれたころ、先生のお嬢さんが最初の子どもさんを出産され、おじいちゃんになられたのと、先生の死期が近づいたのとがほぼ同時だったと思います。 お嬢さんの結婚には、ある注文をつけておられました。住まいは両家の真ん中にしろ、ということです。そうすればお互い気がねなく訪ねられる、ということでした。ところが、新居は婿の実家に近いところになってしまって、ちょっと不満のようでした。 息子さんには「おまえは医者になるな。機転がきかんからむりだ」と言い渡されたそうで、息子さんは「親に見限られた」と言っていました。でも息子さんとはよく会うのですが「ぼくはやっぱり医者になるのはむりだった。おやじはよく見ていたな」と話しておられます。 先生は、そうしながらも、ゆっくりダウンヒルコースを降りて行かれました。先生は、看護婦さんであれ、掃除に来てくれた人であれ、だれにでも「ありがとう」と言ってねぎらっておられました。どこまでも優等生を貫き通そうとする紳士であり、それができた人でした。 十一月の後半になると呼吸困難が出てきたのですが、先生は「ひどいことはするなよ。先は分かっているのだから」と、お互いの負担になるような治療は望まなくなりました。 亡くなったのは昭和五十五年十二月三日の早朝です。解き放たれるがごとく、旅立って行かれました。その日、私だけでなく、兵庫医大のすべての人たちは大きな依り所を失った気持ちになりました。生きておられたら間違いなく理事長を務められ、もう少ししっかりした兵庫医大を築かれたと思います。 その日は、無性に涙が出てたまりませんでした。 私は社会人になってから表彰状をもらたのはたった一枚。難治性の心筋梗塞で冠状動脈がボロボロの患者さんの命を取り止めたということで、先生自らがが「ようやったな」と賞状をつくって渡してくださったのです。 先生がつくられた賞状はこれが二枚目です。最初に表彰状をもらったのは守口さんという先輩で、心筋梗塞に伴う合併症で、心室中隔穿孔という、右心室と左心室を隔てている壁に穴が空いてしまった幼稚園の園長を手術で救ったことで、先生から最初の表彰状をもらっています。この手術は日本では二例目でした。 その後、ほかのところからいくつか表彰状はもらいましたがどこに行ったのかは分かりません。表彰状とともに、一万円をもらいました。先生のポケットマネーからの賞金です。これでよく聞こえる聴診器を買いました 「朝、病院に来たら、気にかかる人のところへ一番に行け。夕方帰るときはその人のところに行き、見届けてから帰れ」というのが先生の考え方であり、医局全体に浸透した日課になっていました。私は、月曜と金曜は、朝八時からみんなと一緒に病棟回診しています。依藤先生は九時からでしたから、私の方が一時間早い、それだけが依藤進に対して私がちょっぴりいばれることです。 |
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