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田中 賢治 先生
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故 田中 賢治 先生 

謹んでお知らせいたします。
平成25年9月21日にご逝去されました(満62歳)。

(たなか・けんじ)1951年高砂市生まれ。

75年神戸大学医学部卒業。神戸大学医学部付属病院、兵庫県玉津福祉センターリハビリテーションセンター付属中央病院、新日鉄広畑病院、神戸労災病院、鐘紡記念病院 、海星病院整形外科部長をへて平成14年より現職。日本整形外科スポーツ医学会会員、兵庫県文化体育館スポーツ相談医など。 神戸市灘区在住。

1)いきなり歩きだした謎の娘さん

■年間最多ボトル賞

 ヒトの体は不思議なものですが、ヒトの心はもっと不思議なものだな、とつくづく考えさせられたことがあります。

 あちこちの病院でレジデントの研修をして神戸大学付属病院に戻ったときでした。腰や足が痛いといってきた若い女性の患者さんを先輩から引き継ぎました。未婚の、家の手伝いをしているという娘さんです。

 入院してもらい、X線写真を撮って検査をしたら、腰椎椎間板ヘルニアと分かりました。この疾患は、脊椎と脊椎の間にある椎間板の中心に髄核というのがあるのですが、これがずれて外に出たり、突き出したりして神経根を圧迫して腰や足が痛くなるのです。ときには足がしびれ、運動マヒを起こすことがあります。 20代や30代の若い人に結構多いのです。ぎっくり腰というのは、この腰椎椎間板ヘルニアが、体をねじったりしたときに急に起こることです。

 娘さんの原因はなにだったのか分かりませんが、重症だったのですぐ手術をしました。神経を押さえている椎間板を取り除く手術で、そう難しいものではありません。もっとも、おなかの手術が「盲腸に始まって盲腸に終わる」と言われるように、整形外科の手術も「椎間板に始まって椎間板に終わる」と言ってもいいほど、基本であり同時に腕を問われる手術で、慎重でなければなりません。

 手術はうまくいって、娘さんは、麻酔が効いているあいだは両足ともよく動かしていました。ところが翌朝になると、両足の関節をまったく動かせなくなっていました。手術は問題はなかったはずですが、術後の出血があってそれで神経マヒが起きたのかな、と考えて検査をしても異常はありません。

 「悪いところはとったからもう大丈夫」「どこも問題ないから足を動かしてみなさい」と、データを見せて説得し、動かす訓練を勧めたのですが、痛みを訴え、マヒが続いていて足を動かしません。

 症状がよくならない患者さんと顔を合わすのはつらいことです。毎日の回診は、もう苦痛の連続、といっていいほどでした。

 後輩のレジデントに同じような症状の患者を担当しているのがいて、勤務時間が終わると二人でよく三宮に飲みに行きました。もともと私は酒はビールをコップ一杯飲むと赤くなる方で、強くはなかったのですが、大学を卒業したあたりから盛んに飲み屋通いをするようになっていました。この娘さんを担当するようになってからは、その回数が増え、とうとうその年はウイスキーを 24本飲んでしまいました。

 どうしてこんな数字を覚えているかというと、スナックのママさんが「田中さんは年間最多出席。最多ボトル数です」と表彰してくれたからです。もっとも、最多ボトル数の記録は、 25本というもう一人のつわものがいたそうですが…。後輩の飲み友達も同じような悩みを抱えていて、二人で傷のなめ合いをしているうちに本数が増えたしまったようです。

■突然歩きだし退院

 回診のつど、娘さんに話しかけていると、どうも家庭に複雑な問題があり、その悩みが影響しているのではないだろうかと思えてきました。両親が不和で、希望していた大学進学がかなわず、就職したけどいろんな心配があって会社を休みがちになり、とうとう辞めてしまった、ということです。こうした背景を考えると、ヒステリーの疑いが濃厚になってきました。

 痛みを訴える疾患には、ヒステリーが原因である場合が多く見られます。ヒステリーの発作で倒れる人がありますが、どういうわけか、うまくケガをしないように倒れるのですね。ヒステリーにはよく分からないところがあります。

 経過が思わしくないので、リハビリに専念してもらおうと、兵庫県立玉津福祉センターリハビリテーション付属中央病院に転院してもらうことになりました。ここは日本でも有数の優れたリハビリを行っているところです。でも、そこの担当医と電話で話すと、自分で足を動かす気配は一向見られず、相変わらず車椅子のままだということです。ヒステリーの疑いが濃厚にある、と説明すると、向こうでも同じようにそれを疑っていて、「われわれ医師や看護婦、訓練士が見ていないところでは歩いているのではないだろうか」とも言っていました。「病室に監視カメラを取り付けておけば、そっと歩いている姿を見ることができるかもしれないのだが…」という話をしたこともあるほどでした。

 彼女のことは気にはなっていたのですが、いつしか忘れてしまったころ、レジデント五年目の研修先として玉津のリハビリ病院に転勤することになりました。辞令は7月1日付けです。その日は日曜日でしたが、勤務医のローテーションの都合上、当直医として出勤してくれ、ということでした。転勤初日が当直ですが、レジデントというのは不平を言わないものだと見られていましたから、レジデント勤務というのはこうしたものです。

 医局に顔を出すと、そこへ彼女が歩いてやってきて「お世話になりましたが、今日で退院させていただきます」というのです。

 「やあ、久しぶりだな」と声をかけようとしたのですが、その言葉は途中で止まってぼうぜんとしました。きのうまで車椅子でしか動けなかったはずなのに、なぜ、どうして、とアッケに取られてしまいました。看護婦さんたちも口あんぐりです。

 彼女は、「どう、よく見て」と言わんばかりに私たちの周りを歩いて見せて、にこやかに退院していきました。

 翌日、主治医にたずねると、同室の人たちとうまくいかず、病院を出ていくことにしたようです。しかし、一年近く足を使わず、車椅子で暮らしていれば筋肉が衰えて、すぐには立てず、歩くこともできないはずです。廃用性筋委縮といいますが、リハビリはそれを治すことに力を入れていて、院内の患者の動作にみんなが気をつけています。

 彼女はだれも見ていないところでは足を動かしているのかもしれないと疑っていたこともあって、筋電図をとっていたのですが、それを見ても筋力は衰えていて、急に歩けるはずはなかったのです。

■痛みの背景にあるものは

 しばらくして、彼女からはがきが届きました。「歩けるようになり、これからは医療事務の勉強をして、社会復帰します」と書いてありました。医療関係の仕事をしたいというからには、病院に敵意を持って私たちに逆らい、歩こうとしなかったのではない、と思われます。うれしいことではあるのですが、いったいどうして急に立ち上がり、歩くようになったのか、いまだにそのなぞが解けません。

 そのはがきの宛て名の面を裏返すと、本文ははがきの下の方から書かれていました。上下反対の変なはがきの書き方で、なにか意味があるのかなと考えさせられて、またなぞが深まってしまいました。

 私は頭で考えることが苦手で、学部に在学中、どの方面に進もうかというときも、できるだけ頭を使わないコースがいいだろうと整形外科を選んだのです。整形外科だと、切る場所も決まっているし、切り取った後には人工のものを取り付けて置けばいいから悩まずにすむ、とごく単純に決めたのですが、彼女にぶつかってみて、そんな考えが甘かったことを思い知らされました。それから後は、患者さんの生活の状況、社会的背景などもできるだけ理解して痛みの本当の原因を突き止めるように努力しています。

 アメリカでは「痛みの原因は別のところにあるかもしれない」「キャラクターを確認してから手術せよ」と心理テストをしてから治療に当たる傾向があります。これによって、手術しないで、精神科に回ってもらって治ることがあるということですが、しかし彼女の場合はどうだったでしょうかね。ひょっとしたら、心理テストを受けてもうまく欺き通したかもしれません。彼女は、頭を使わないですまそうと安易だった私に「人間はそんな単純ではないわよ」とガツンと一発食らわしてくれました。

2)言い負かされて禁煙成功

■先生は病気にならないのか

 いまは吸いませんが、1日に40本から60本も吸うヘビースモーカーだったのです。吸いながら診察したり、カルテを書いたりで、不謹慎な医者でした。何しろ吸い始めたのが中学三年で、高校二年のときは新幹線の中で制服を着て吸っていて車掌さんに厳しくしかられたこともあります。高校生の喫煙は、大人の気分を味わいたいというのと、社会が禁じていることに反発してやろうという動機からが多くて、二十歳になるとその理由がなくなりますから吸わなくなるものですが、私はずっと続いていました。

 それがやめられたのは患者さんのおかげです。

 バージャー氏病という、動脈硬化症の中の閉塞性血栓性血管炎がありますが、血液が回らなくなって、足が腐ってきて切断することにもなる病気です。この病気にかかった人にはタバコを吸っている人が多いのです。血管が詰まりやすくなるからでしょう。

 私が玉津のリハビリ付属中央病院にいたころ、中年の男性で、この病気の患者さんを担当しました。小柄で、ちょっと角張った顔の、気さくな感じのおじさんです。右足が腐ってきて、下腿部を切断しなければなりませんでした。

 足を切断されるのはだれでもつらいことですが、腐ってきているのであきらめもあり、痛みもつらいので「手術したら楽になる」と切断に応じ、その後、義肢をはめ、杖を使って歩くリハビリテーションに励んでいました。

 ところが看護婦さんが「先生、あのおじさん、なんぼ注意してもタバコをやめへんのよ。先生からきつく注意してください」と言ってきました。

 そこで「何回も言うたやろ。また悪くなるから絶対禁煙や」ともっていたタバコを取り上げました。

 「先生、人にそんなこと言うても先生はプカプカ吸うとるやないか」

 「なに言うとるんや。そっちは病気やないか。こっちは病気やない」

と言い合いになりました。

 「そんな理屈あらへんで。手術の前、足が腐る原因はタバコにもある、何でかというと、血管が詰まりやすうなって、とか先生がいろいろ説明したやないか。先生だけは腐らへんのか」

■ジョギングも始められた

 そのころでも、当然診察室は禁煙だったのですが、医局の自分の部屋や看護婦詰め所のコーナーでは許されていて、廊下から私が吸っているのは見えているのです。

 「先生も足を切断せんでもええようにやめなはれ。そんなら私もピッタリやめます」

 実は、その2年前にタバコをやめて、一年ほど続いていたのですが、いつの間にかズルズル戻っていました。おじさんに言い負かされて、これがいい機会かな、と考えました。年末だったので、こういうことは節目をはっきりさせた方がいいと、医局や看護婦詰め所を回って「私、来年 1月1日をもって禁煙を実行いたすことになりました。どうぞみなさまのご指導、ご協力をお願いいたします」と宣言しました。

 すると、整形科部長も「そうか。実はおれもやめることにしたんだ。どっちが長続きするかな」と、いいライバルが現れました。

 しばらくはだれでもやるようにガムをかんだり、水を飲んだり、吸いたくなる気持ちを紛らわしてきましたが、酒の席ではつまみを口に入れる量が多くなって、体重が増えてきました。

 患者さんに「ちょっと太り過ぎですなあ。やせる努力をしなさい」と言うこともあるのですが、あの患者さんに言い負かされたように、太った医者が「やせなさい」と言っても説得力はありませんから、ジョギングを始めました。家の周りを数キロ、当直の朝は病院の周りを走っています。いま 10キロ47分くらいです。ゴルフの腕を上げたいので、7キロ35分が目標です。

 禁煙もでき、走るようにもなり、ゴルフのスコアもよくなり、言い負かされたのはうれしい出来事です。

 なにかちょっとした動機づけがあればできるのですね。目標があれば続けられます。もう少し早くあの患者さんに出会っていれば、タバコ代が節約できて、小遣いが助かったなあ、と思ったりしています。


 

 

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             最終更新日 : 2011/06/24