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清川 達矢 先生(清川眼科院長)
目の神社で腕を磨こうと誓う ■臨終を喫茶店で待つ身内 医者として独り立ちしたのは、山奥の診療所です。兵庫医科大学の在学中は奨学金を受けていたので、研修医の期間が終わると十二年間は僻地での医療に携わるという約束があるのです。診療所は京都府との境に近い丹波の山中の小さな建物でしたが、以前から勤務している年配の看護婦さんとのんびり診療所を守っていました。 往診でよく農家を訪ねることがありました。そんなとき目にしたのは、どこからやってくるのか、一人暮らしの高齢者をだますセールスマン。磁石の入った布団を持ち込んで「これは長生きできる魔法の布団だ」とまくし立てて、何十万円という途方もない値段で売りつけています。「手元に金がない」と断ると車に乗せて町へ連れていき、銀行で金を下ろさせて巻き上げることもやっていました。そうしたセールスマンを見つけると「お年寄りに無理やり売りつけるな。とっとと帰れ」と追い返してやりました。 催眠商法というインチキな商売は、いまもまちの中で見かけます。いまは神戸市灘区で開業していますが、近所でやっているのを見かけると、私は「だまされないように気をつけよう」と書いたビラをつくって商店街のあちこちに貼っています。人のいいお年寄りをだます商売は許せないという気持ちは、丹波の診療所での体験から身に染みついてしまったようです。 丹波の診療所はいいところだったのですが、でもいつまでもぼんやりしていると腕を磨けないし、医学の進歩に置き去りされるという不安がありました。 医大に在学中は、医者というのは内科医のことで、内科医しか医者ではないと思っていたのですが、専門性のある医者でないとおもしろくないな、と思うようになってきました。オールラウンドの医者であるよりも、ひとつの分野を深く勉強して手に職をつけようと決心しました。専門分野で腕を上げれば自分が求めるところで働けると思ったのです。 そこで、診療所の勤務の合間に丹波では一番大きな県立柏原病院に行って、勉強させてほしいと頼むと、身分を神戸大学医学部付属病院の医局に移すのだったらいいだろうということで、外来の手伝いをしながら眼科医療を正式に学びました。 前の病院にいるときから細かい手術が好きで、顕微鏡を見ながら血管と血管とをつなぎ合わせるミリ単位の手術が得意でした。ブタ、ネコ、ウサギの目を使って、目のレンズの細胞研究もやったこともあります。 眼科を選んだのにはもう一つ理由があります。研修生のとき、県立尼崎病院で、腎臓ガン末期の五〇代の女性を担当したとき、家族を呼んで「極めて難しい状態です。覚悟しておいてください」と伝えました。 そのときご主人はいなくて、主人の兄弟だったと思いますが、「あかんのんか。しゃあないな。そんなら喫茶店におるから終わったら呼んでや」と言うのです。身内が臨終を迎えようとしているとき「終わったら電話してくれ」という態度はいったいったいなんなのだろうかとがく然としました。生死をそんな姿勢でとらえる人たちとかかわるのはイヤだ、と思うようになって、これが眼科医になろうとした動機のひとつでもあります。 目で見る情報は、人が取り入れる情報の九割りを占めているといわれます。それだけに視力が薄れ、見えなくなるのはつらいことです。 白内障で両眼が見えなくなっていた五〇代の男性ですの話ですが、手術をして片方が見えるようになり、その祝いを兼ねて奥さんと九州旅行をして帰ってきて「先生、やっぱり見えるのはいいもんですなあ。阿蘇山があんなにきれいだったとは思いませんでした。もう片方も見えるようになったら、倍ほどきれいに見えるようになるでしょうな」と楽しみにしておられました。だが、腎不全もあって、手術をする前に亡くなられました。少しだけでも風景を楽しんでもらえたけれど、もう半分は間に合わなかったな、と複雑な気持ちになりましたね。 眼科の勉強は一生懸命にやったつもりですが、壁にぶつかることもあります。 ■気がつけば目の神様の拝殿 但馬の公立日高病院に勤務していたときです。80代の男性で、黒目にキズがある難治性の角膜潰瘍で、どう治療しようかと悩みました。文献を当たったり、先輩に聞いてみたり、さんざん考えて、でもいい方法が浮かびません。 そんなある日、気がつけば、私は、目の神様として知られる青倉神社に参拝していました。朝来郡朝来町伊由市場の国道312号の脇に大きな石の鳥居をくぐって参道を歩いていました。でも、歩けど歩けど神社が現れません。とうとう石積の急な山道になり、一時間 以上かけてたどり着きました。 (車でも15分かかる山の上です: http://www.hyogokenshin.co.jp/discover/Nantan/nantan1.htm ) 拝殿のわきにある案内板を読むと、白鳳時代に法道仙人が開いた霊場で、そばの大きな岩から染み出る水で目を洗うと眼病に効いたことから目の神様としておがまれるようになった、と書いてありました。 白鳳時代の法道仙人というのは眉つばですが、巨岩から水が湧きだし、年中涸れることはないというのは事実のようです。周辺の山は禁足の地なっていて、だれも足を踏み入れたことはなく、なぜ水が湧いてくるのか、突き止めた人はいないと言うことです。地名の「伊由」は「いで湯」からきていて、地元では冷泉が湧いているのではないのだろうか、と推測しています。 参拝の人は自分のためや目の悪い家族のためにその水を汲んで持ち帰るのです。治療法に困ってふらふらやってきた私ですが、眼科医であるという立場を思い出し、そこまではしませんでした。しかし、高い山の上まで上ってくる人たちを見ると、悪い目をなんとかしたい、見えるようになりたいという真剣な気持ちがひしひしと感じられ、眼科医としてもっと勉強し、腕を磨かなければならないな、と改めて思いました。
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