|
|
笹田 明徳 先生 (六甲病院院長)
■上司にそっぽ向き魚釣り 私は、本当は建築家になりたかった。数学もまあまあ得意だったし、進路を考える高校生のころは東京オリンピックの前で建築ブームもあったから、大きなビルを建てるのも気持ちいいだろう、と漠然と思っていた。ところが母は「あんたは会社勤めには向いていない。人にあわせて仕事をするような性格ではない。一人でもできる仕事に進みなさい」と言う。まだそのころは教育ママという言葉はなかったが、けっこう口うるさく私の進路を心配していました。 高校は大阪の四條畷高校で、山岳部に入部していたが、そのころは大学山岳部などの遭難事故が多かった。谷川岳の岸壁で宙づりになった遺体のザイルを自衛隊が千五百発もの弾を撃って切断するとか、北アルプスの薬師岳で愛知大山岳部の十三人が遭難、死亡するとかのニュースが相次いでいた。親に無断で冬の大峰山や六甲山に出掛けていたが、これがばれて、母に厳しくしかられました。 大学受験の願書を出すころ、担任の教師が新婚旅行に出かけてしまい、最終進路の相談ができず、母の言うがままに医学部を受けることになってしまった。大阪大学医学部は手ごたえはあったが、発表を中之島の校舎に見にいったら名前がない。ついて来ていた父が黙って料理屋でウナギを食わせてくれた。軍人だったおやじなりの慰め方だったのでしょう。 国立二期の姫路工大医学進学課程を受けたらなんとか合格できた。苦労して入った医学部なのに、こんどはヨット部に入部して、大学に行くよりハーバーに足を向ける方が多く、同級生の名前は三、四人しか知らないというありさまだった。 まあどうにか卒業できて、赤穂市民病院を振り出しに、大学付属病院と兵庫県立ガンセンター、こども病院を行ったり来りの研修のあと、一九七七年四月十六日付けで兵庫県立淡路病院外科医長として赴任しました。三十一歳のときでした。八カ月の長男と妻の三人で洲本の船着き場に降ると、桜はもう散っているころなのに、曇り空で肌寒く、妻が心細そうに空を見上げていたのを覚えています。いまは明石海峡大橋がかかり、神戸から洲本までは一時間足らずだけど、そのころは神戸の中突堤から高速艇で行くのが一番早い方法で、海が荒れると孤立してしまう遠い土地で、不安だったのでしょう。住まいは、本土へ転勤した内科の先生が住んでいた平屋の一軒家を借りました。病院まで歩いて二十分ほどなので、自転車で通っていました。 母親が見ていたとおり、私は人に愛想よくしたり、妥協するのが苦手で、先輩に対しても、あいつのやり方は気にいらんと思うとすぐ背中を向けてしまう性格が直っていませんでした。県立淡路病院でも気に食わない上司がいて、顔を合わせるのもいやで、用がなければだれも来ない部屋に引きこもって本を読んだり、魚釣りに出掛けていました。大学では「またあいつがつっぱっている。困ったもんだ」とうわさになっていたようです。しかしおかげで、淡路時代はよく勉強できて、いまの私にはずいぶん役立っているとありがたく思っています。 ■初めての難病治療 淡路に来て五年近くになるころ、例によって夕方から一人でメバル釣りに出かけました。当時まだ建設工事中の大鳴門橋の、淡路側の橋脚のそばの岸壁で徹夜で糸を垂れ、朝、重たくなったクーラーボックスをかついで家に帰ると、病院から何度も電話があったと妻が言います。急いで駆けつけると、前日、急性腹膜炎で入院させた二十二歳の男性の症状が急変していました。この患者さんはその前の日の早朝、突然心窩部が痛くなり、痛みが腹部全体に広がって、近くのお医者さんに見てもらったら、町医者では手に負えないからと搬送されてきたのです。そのころ淡路島にある大きな総合病院はここだけで、島の最高医療施設だと見られていました。 おなかを抱え込んであごを胸につけるように背中を丸めてうなり続けるすごい痛みです。おなかは板のように堅くなっていました。CTで見ると、腹水が少し認めらましたが膵臓のはれは見られませんでした。おなかに管を刺して腹水を取って見ると血が混じっていてアミラーゼ値が高く、急性膵炎と診断しました。 膵臓は、胃の裏側にある臓器で、消化液の一種である膵液を分泌して十二指腸に送っています。何かの原因で膵臓に異常が起きて防御機構が壊れると、膵酵素が膵臓自体を消化するようになるのが急性膵炎です。数日間安静にして、絶食絶水と輸液でよくなる軽症型と、ショック状態になり、ほかの臓器にも障害を起こす重症型などさまざまな病像があります。この十数年間に治療方法は急速に向上しましたが、それでも重症急性膵炎の死亡率は三〇%という高い率になっています。 実は、重症急性膵炎の患者さんを見るのはこのときが初めてで、文献をいろいろ当たってみるとなかなか難しいと思えてきました。このときから八年後の一九九〇年に厚生省の調査研究班が急性膵炎の診断基準や重症度の判定基準をつくって、重症急性膵炎は難病に認定されたのですから、当時はまだまだ解明が進んでいなかったと言えます。 患者さんは、淡路の南淡町の北阿万小学校の先生で、六年生の担任でした。付き添ってきたのは、西淡町の慶野松原の海岸近くで民宿をやっている温厚そうな父親でした。お父さんに「厳しいですね。よくなるか、悪くなるか何とも言えません」と伝えると「どうかよろしくお願いします」とひたすら頭を下げておられました。こんな場合、どこかほかの病院で見てもらうことはできないか、と患者さんの家族から言われることがよくあるのですが、お父さんは、すべてお任せします、という姿勢でした。 淡路では、島から外に出て治療を受けるというのは、船旅に耐えられる程度の症状で、本土に親しい医者がいるからみてもらうという場合か、緊急に脳外科手術が必要で、兵庫県のヘリコプターで搬送するというような極めて特別の場合だけでしたから、県立淡路病院の責任はひときわ大きかったと思います。 腹腔内にチューブを刺しての腹膜透析や血液透析を繰り返したりしたのですが、効果は一進一退で、入院十三日目には腸に穴が空いていることが分かり、開腹手術をしたところ、大腸と小腸の区別がつかないほど炎症がひどく、溶けてくっついていました。その後、おなかの中に出血があったり、脳神経に障害が出たり、敗血症が起きるなど合併症が次々と現れてきました。 ■突っぱり医者にも涙 お父さんには、そのつど病状を説明していたのですが、だんだん覚悟を決められていかれたようです。入院から五十二日目ごろ、患者さんがなかば昏睡状態に陥ったとき、お父さんが医局に来られて「あの苦しみようは見ておれない。息子の人間としての尊厳を守るためにも殺してやってくれ」と言われました。ガーゼを替えるときにおなかの中を見られたかも知れません。つらかっただろうと思います。いまは痛みを緩和する薬がいろいろありますが、当時は十分ではありませんでした。もちろん「そんなことはできない。万全を尽くします」と答えたのですが、お父さんのお気持ちはよく分かりました。 病室にはたくさんの千羽鶴が飾ってありましたが、これは患者さんの教え子たちが折ったお見舞いでした。後で知ったのですが、教え子たちは百度参りもして、先生が学校に戻ってくる日を待っていたということです。そうした願いに何とかこたえたいと手を尽くしましたが、入院から五十九日目に「ご臨終です」と言わなければなりませんでした。 「人間の尊厳」という言葉を口にされたお父さんは、楽にしてやってくれ、というだけではなく、別の面からも息子さんのことを深く考えられていたと思います。 亡くなられた患者さんには、口に綿を詰めたり、ガーゼを新しいのと取り替えたり、着物を着せ替えたりします。普通は新しい浴衣が多いのですが、そのときお父さんは、紋付きの着物と縞の袴をもってこられました。 「先生、これは息子の結婚のときのために用意しておいた着物です。これをはかせてやってくれませんか」と白足袋を渡されました。私は足元に回って足袋をはかせてあげたのですが、そのとき、グッと胸が詰まってきました。 合掌して部屋を出て、透析室に行って、いろいろ無理を言ってきた婦長に「大変世話になったけど、だめだった。ありがとう」と礼を言ったときにも、また胸が詰まって、別の部屋に駆け込み、涙をふこうとしたら、止まらず、いつまでも泣き続けてしまいました。医者になって初めてのことでした。 教え子に慕われていた先生のこと、息子に正装させて旅立たせる父親のこと、「足袋をはかせてやってくれ」と言ってもらえる遺族と医者とのかかわりのこと、そんなことが一度に胸に押し寄せたのです。そして何よりも強く胸に押し寄せたのが、助けられなかった無念の思いでした。 三日後の神戸新聞淡路版のトップ記事に「新任教諭が病死。教え子、島外見学やめお別れ」という記事が掲載されていました。一年足らずの教師生活でありながら、担当した六年生だけでなく全校児童から慕われていた先生で、教え子の六年生は中学生になってからも見舞いに行き、百度参りをしていたということです。告別式には、中学校の島外見学がある予定だったが中止して参列し、涙にくれている教え子たちの写真も掲載されていました。「教師と児童との間にこれほどまで強いきずなができているのはまれなこと。すばらしい先生なくした」とも書かれていました。 私はその後、この症例の研究報告を学会に発表させてもらいましたが、多くの医師、研究者の努力と成果があって、重症急性膵炎の治療法は急速に進歩しました。難病には変わりありませんが、致死率はどんどん下がってきています。いまも、この病気の患者さんに接するたびに、淡路の熱血先生のこと、白足袋をはかせてやってくれと言った父親の姿がめに浮かびます。
尊敬していた恩師のN先生は、やせて背が高く、メガネをかけた誠実な方でした。京都大学医学部から大阪府立医科大学をへて神戸大学へこられ、鳥取大学の教授を務めて再び神戸大学医学部の教授として戻ってこられました。 大学の教授会は、どこでもそうでしょうが、複雑な人間関係、勢力争いがあって、助手や講師、助教授たちをも巻き込むことがあります。「医学部の地位を向上させ、学問の進歩をはかるための政治だ」という人もいますが、私はそうした駆け引きが性に合わず、人間関係は、好きか嫌いか、だけで通してきました。いやだと思うとぽんぽんと言います。しかも言葉遣いが悪い。 そんな私ですが、あるときスナックのママから「N先生が『笹田は、顔もしゃべりかたもヤクザみたいだけど、手術はていねいだ』とゆうてはりましたよ」と聞いたとき、嫌われものの私でも評価してくれる人はいるのだ、と感激しました。 そのN先生が退官され、播州の公立病院の院長になられて一年ほど経ったときです。体調を崩してこの病院に入院していると聞いて見舞いに行きました。 主治医が「こんなんですわ」と持ってきたレントゲン写真を見ると肝臓に十センチ以上のガンがあり、どうしようかと相談しているときに、N先生の下にいた教授がやってきて「もっと小さく写っているのを捜してこい。だれかの二センチくらいのがあるやろ」と言うのです。 当時、私は講師という身分でしたが、その教授に「ちっさいものをもってきてもあかん。ありのまま話をせんとあかん。つじつまが合わんことになる」と反対して、「先生、こんなんですわ」と本当のレントゲン写真を見せました。 「大きいけど表面に近いし、取り除いても肝臓はいくらか残りますから」と言いますと、先生は「胸の写真を出せ」と言われました。実は、胸にも白い点がいくつかあって、見れば転移しているのがすぐ分かるのです。主治医はそう言われるかもしれないと考えて用意していたのでしょう、他の人のきれいな胸の写真を持ってきました。すみっこには、ちゃんとN先生の名前が入っています。N先生は胸部外科が専門ですから、本当の自分の写真を見るとすべて分かってしまわれます。 先生は五分間ほどじっとそのニセの写真を見て、結局何も言われませんでした。私たちはばれたらどうしようかとひやひやしていたのですが、先生は写真を置くと「それならどうすればいいのかね」と聞かれました。「手術をするかどうか、もっと詳しい検査をしたいので大学病院に移ってください」と言ったのですが、ひょっとしたらニセの写真のことは分かっておられたのかも知れません。先生は「君たちのいいようにしてください」と言われただけでした。 九二年三月二十四日に入院してもらい、いろいろ検査すると、ガンが血管の一部に顔を出しているし、なかなか難しい状態でした。四月の初め、別の患者さんの十数時間に及ぶ手術をして戻ってくると、看護婦さんが「N先生がお呼びです」と知らせてくれました。消灯時間を過ぎていましたが、病室に行くと「切れるんだろう。だったら君にやってほしい」と言われました。大学病院には肝臓外科の権威者が何人もいるのにその人たちを差し置いて私を指名されたことにはびっくりしました。それだけ弟子を信頼されているのかと思うと、うれしく思いましたが、同時に責任の重さもひしひし感じました。 ところが、周りからは「おまえがやるんか」とか「腕は大丈夫なんだろうな」などいろいろ嫌みを言われたり、プレッシャーをかけられました。そんな声が広がっていたからでしょうか、心安い先輩が「ゴルフにでも行ってリラックスしよう」と誘ってくれて、帰りは寿司屋で冷酒を飲んだのですが、テーブルの上の大きな灰皿を指さして「ビンの栓をこの上に山盛りになるまで飲もう」と言うのです。小さなビンですが、栓が積み上がるほどになると、もう前後不覚。あとのことは何も覚えていないという状態でした。 ■ラジオで献血呼びかけ N先生の血液型はA型のRhマイナスです。日本人の血液型は、A型は十人のうち四人、O型は三人、B型は二人、AB型は一人という割合で、A型は比較的多いのですが、Rhマイナスは二百人に一人ですから、A型Rhマイナスは五百人に一人という割合になります。 C型肝硬変もあって肝臓に障害があり、血液の凝固がうまくいっていないこと、肝機能障害が進んでいることも分かりました。ですから主治医に輸血用血液を十分に用意しておこうと言って、一週間まえまでに一万八千ミリリットルをあちこちから集めてもらいました。人工心肺のポンプも用意し、四月二十一日、先生に「がんばってやらせてもらいます」と言って手術に臨みました。 その日、第二外科の手術はN先生だけということにしてあり、関係の教授をはじめ大勢の人たちが手術室に集まって注目していました。「おまえにできるかどうかな」「失敗は見逃さんぞ」という冷たい視線も感じながらも、手術は問題なく進み、悪いところをきれいに取り除くことができました。肝臓はもとの四分の一から五分の一にはなりましたが、うまくいった、と思いました。プレッシャーから解放されて、ほっとして手術室から出てタバコを吸っていました。 そうしていると手術室から「血が止まりません」と呼びにきました。急いで引き返すと、残った肝臓から血が吹き出しているのです。凝固障害が進んでいて、出血した血が固まらないのです。それからは、ポンプを回したり、いろいろ手を尽くしたのですがどうしても止まらない。用意した輸血用血液も残り少なくなってくる。そこで、吹き出した血を回収して、セルフセーバーという心臓手術でよく使う機械で濾過し、もう一度輸血することもしたのですが、それではもちそうもない。 「どこからでもいい、A型のRhマイナスを捜してこい」と叫ぶと、札幌だったか仙台だったか、遠くにはあるが運ぶのに時間がかかるという返事が返ってきた。「それでもいい。早く頼んでくれ」と言って、なんとかそれまでもたせることに必死でした。保存血は、時間が経つと凝固機能がおちるので、繰り返し使っているとますます効かなくなる。これが心配でした。 そのとき、当時の第二外科の医局長が、献血を呼びかけようと言い出しました。彼がラジオ関西に電話して、放送で呼びかけてくれるように頼んだのですね。夜十一時ごろまでに十二人の人たちが大学病院にやって来てくれました。これが効果を発揮しました。出血がしだいに少なくなり、落ち着いてきました。午前一時過ぎ、ようやく先生をICUの部屋に移すことができました。予定なら昼過ぎには終わっているはずなのに、十数時間の手術になってしまいました。 後で聞くと、A型Rhマイナスの献血呼びかけは、ラジオ関西の夕方のニュースの時間と、プロ野球の阪神−大洋戦の実況中継の五回の裏が終わったあとのニュースの時間、そして午後十時のニュースの時間の三回放送されたということです。ラジオの威力の大きさと、夜中わざわざ献血に駆けつけてくれる心やさしい人がいるんだ、ということもよくわかりました。放送してもらったこと、たくさんの人たちが来てくれたことは本当にありがたいことでした。けれど医局長は、日本赤十字センターから「勝手なまねをしてくれた。以後慎むように」としかられたそうです。 翌日の朝、先生はICU室で目を覚まされ、そばにいた私を見て二、三度うなずかれました。いろいろ管が入っていて言葉は出なかったのですが、「よくやってくれた」「ありがとう」という意味だったと、これは私の勝手な解釈ですが、そう思っています。 しかし、再び肝臓から血が流れ出し、止まりません。新鮮血も残り少なくなってきました。状態が悪化し、医局挙げて救命にかかったのですが、すでに見込みがありません。肝臓のガンはきれいに取れたのに、救えないのが悔しくて、涙が止まりません。亡くなられたときも、その後も、ずっと先生の足元に立って、ハンカチで涙を拭っていました。 3)休日出勤して診察しただけなのに ■遺族も出席した送別会 私は県立淡路病院に八年間いましたが、島を出て神戸大学に帰るとき、それまで診察したり手術したりした患者さんたちが集まって送別会を開いてくれました。洲本の旅館に五十人くらい集まった会で、この中にはどうしても助けられなかった患者さんの遺族も参加していました。いろいろ難題を吹きかけて困らされたいわく因縁のある患者さんの顔も見えました。患者さんたちに送別会をしてもらったのは、これが唯一の経験です。 送別会を計画して仕切ったのは森さんという、盲腸ガンの手術をした鉄工所の社長で、その後も親類より親しいつきあいをしています。 森さんが四十歳のとき、個人病院から膵炎だと紹介されて県立淡路病院に入院し、盲腸ガンと結腸ガンがあることが分かり、四月二十二日に右の大腸の半分を切りました。連休に入ったので、私は家族と一緒に枚方の実家に帰って、毎日実家から病院に電話して、患者さんの様子を看護婦から聞いていました。 そのとき「森さんの熱が三十八度くらいになって、本人が不安がっている」というので、合併症が起こったのかな、と考えてドレーンやガーゼの状態を聞くと、汚れていないというので「心配することはない、と言っといて」と頼んでおきました。私も全く心配していなかったのですが、連休をずっと実家で過ごすのにあきたので二日ほど早く淡路に帰り、病院に顔を出し、患者さんの様子を見て回りました。 ところが森さんは、自分のために休みを犠牲にして帰って来てくれたのだ、と思ったのでしょうか、「先生、すみません」とすごく恐縮していました。そのころ森さんは従業員二、三人の小さな鉄工所をやっていて、入院が長引くと注文をこなせなくなり、経営が危なくなる、と気にしていたようです。 ガンの転移はなく、入院から三十五日で無事退院し、月に一度ほど検査に来ると「おかげで仕事も順調に発展してきました」と言っていました。 そんな時に「先生の自転車、ボロやなあ。新しいの、家に届けといたわ」と言ったりするのです。妻が「玄関にこれが置いてあった」とタマネギの包みや新米が入った袋を見せることがよくあります。魚が置いてあることはしょっちゅうでした。だれが置いていったのかは分かりませんが、森さんの仕業だとにらんで、外来に来たとき「こないだはありがとう」と言うと「へえ、すんません」と頭をかいていました。 ■タマネギと肖像画 淡路の島の人は、よそから来た人には排他的に接すると言われますが、ある期間を過ぎると極めて親しい関係に変わるようです。気が合えばだれもが親類づきあいのような、別け隔てのない、尽くすことを喜ぶ関係が生まれます。 淡路に八年いて、そろそろ転勤かな、と思っていたら、森さんが「先生、窮屈な病院勤めなんかせんと、ここで開業しなさい。土地はちゃんと用意するから」と言ってきました。私も、大学に帰ってもおもしろくはないだろうし、ずっと淡路にいてもいいかな、とちょっとそんな気になったのですが、娘が小学校に上がる年にもなり、大学からは「帰って来てくれないと人事がうまく回らない」とうるさく言ってきます。森さんは「大学の人事のことは分からんけど、淡路出身の県会議長を動かして何とかするから」とまで言って、引き留めようとしてくれました。 そんなことがあって、患者さんたちに呼びかけて送別会を開いてくれたのですが、妻と一緒に出席し、座敷を見渡すと、それぞれさまざまな思い出のある人たちばかりでした。元気になった人、治療に苦労した人、わがままで悩まされた人。胃ガンで亡くなった父に代わって出席した息子。台風で飛んできた扉が頭に当たった中学生は、開頭手術をしたけれど視力に障害が出てしまったのですが、「先生、いまマッサージ師として開業しています」と元気に報告してくれました。 医者冥利につきるうれしい送別会でした。 私が神戸に来てからも、森さんは「仕事の用で神戸に来たから…」と相変わらず魚やタマネギを持って立ち寄ってくれます。夏はそうめん、冬はクリスマスケーキを贈ってくれます。魚釣りのタモの網を軸に取り付けるネジをつくってくれないかな、と頼むと、ネジと一緒にしっかりした軸もつくってくれました。 他の人に聞くと、よく働く職人気質の気難しい人だ、ということですが、患者と医者という関係を越えた、互いに気持ちが通じ合う生涯の友人です。「もらってばかりで悪いから、何かあげたいのだけど」と言うと、妻が絵を描いていて個展を開いたこともあるのを知っていて「そんなら自分の顔を描いてもらえないかな」と望まれました。けれど、妻が描くのは抽象画で、森さんの肖像がどんな絵になることやら、これが心配です。
|
この Web サイトに関するご質問やご感想などについては、miki(アットマーク)wordmiki.comまで電子メールでお送りください。
|