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関本 雅子 先生
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関本 雅子 先生 (関本クリニック院長 )

(せきもと・まさこ)1949年神戸市生まれ。

神戸大学医学部卒業。神戸労災病院麻酔科をへて94年から六甲病院緩和ケア病棟医長。2001年10月1日 関本クリニック開院 。臨床死生学会評議員。兵庫県生と死を考える会理事。著書『緩和ケア癒しの看護』(日総研)、『生きる』(兵庫生と死を考える会)、『ホスピス入門』(行路社)など。

 人生を完成させる緩和病棟の群像

1)ケア病棟を生み出す

■父の意志は何だったのか

 バタンと大きな音がして、母が飛んで行ってみると畳の上で父が倒れていました。お手洗いに行った後のようですが、意識はありませんでした。救急車で、私が一年前まで勤務していた神戸労災病院に運んでもらって、それから 2週間後、意識が戻らないまま亡くなりました。1988(昭和63)年9月のことです。父は、倒れる前は胃ガンの手術をして自宅で療養中だったのですが、脳梗塞を併発したのです。

 そのころ昭和天皇の容体が一進一退で、新聞は毎日詳しく報道していて、私たち医療関係者は、どういう医療がおこなわれているのか、最高の医療がどのようなものなのかと注目していました。

 母はベッドのそばで「意識が戻らなくてもいい。一日でも長く生きてほしい」と必死で願っていました。というのも、この年の六月に、母は母親を、つまり私にとっては祖母を亡くしていたので、続けて身内を亡くすことはとてもつらかったのです。「雅子、パパがちょっとでも長生きするようになんとかしてやって」と言っていました。天皇の医療のことが頭にあって、できれば同じような高度な治療をやってほしい、という気持ちもあったようです。

「回復はどうも無理ですよ」と内科の主治医に言われたのですが、私は気管に管を入れて人工呼吸器を付けたり、栄養補給の点滴をしてもらいました。最後のころは、心臓の力が衰えてきたので心電図を見ながら心臓マッサージを続けるなど、できるだけのことはしたのですが、これだけの延命治療で命を延ばせたのは一日か二日、という時間ですね。

  父は管に取り囲まれて、点滴で皮膚がぶよぶよになってしまい、見るからに痛々しい様子なのですが、でも母は「手を握ると温か味が伝わってくるから、これでいい」と言っていました。

 当時は延命治療の是非について深く議論されていなくて、むしろ高度な延命治療をおこなうことが精一杯の努力の証しだ、というように考えられていました。何とか少しでも長く生かそう、そのための治療をしようというケースが圧倒的に多かったのです。

 しかし私は、このことがその後ずっと気になり、いまだに引きずっています。延命治療を本人が望んでいるのかどうか、本人の意思確認をどうすればいいか、ということがすごく気になったのです。

 同じ麻酔科の先輩の医師が、こんな悩みを話してくれました。彼の母が肺炎で亡くなった時の話です。

 彼の母は高齢者の肺炎なので、主治医が足の付け根を針で突いて、動脈の酸素濃度を検査し、呼吸状態を調べるのですが、これが大変痛いのです。検査の結果次第では人工呼吸器も使って延命を図るということだったのです。お母さん自身は、意識レベルが下がっていて、穏やかな表情をされていたので、彼は「もういい。自然に任せたい。自然死でいい」と言ったそうです。それで穏やかな死を迎えられたのですが、彼は、あれでよかったのかな、といまも悩んでいると言うのです。

 というのは、延命治療を受けないというのは母の意志ではなかった、意識が薄れていてそのことを話し合うことができなかった、もしかしたら母の気持ちは別のところにあったかも知れない、という悩みをいまも引きずっている、というのです。

 本人の意思確認ができていなかった、ということが後々まで家族の気持ちに引っ掛かってくるのですね。本人の意思確認はすごく大事じゃないかな、と思いますね。

 私の父は、突然倒れてそのまま意識がなかったので、私たち家族が意志を確かめることはできなかったのですが、もしかしたら人工呼吸器を付けたり、心臓マッサージなどしないで、静かに逝かしてくれ、と望んでいたかもしれないと思うのです。そのことがいまも私の心に引っ掛かっています。

 告知のこともそうです。脳梗塞の前に、父は胃ガンの手術をしたのですが、私は「胃にすこしできものができていたから手術で除いたけど、すっきりは治り切らないかもしれないよ」としか言えていません。はっきり「お父さん、ガンだから命は後このくらいですよ。そのときはどうしてほしいの」とは聞いていないのです。そこまで話ができていなかったのです。

■床もカーテンもピンクの病棟

 ホスピスというのは、治療がもはや有効でなくなった進行ガン、末期ガンやエイズの患者さんの苦痛を和らげ、最後までその人らしく生き抜いてもらうようにするプログラムです。命の質という考え方がありますが、命の質を高く生きられるように援助してくことです。ホスピスという言葉は、ラテン語のホスピティウム、暖かいもてなし、という意味から来ています。

 1967年にイギリスで初めてホスピス病棟が作られ、日本では73年に大阪の淀川キリスト教病院の内科病棟でホスピスケアが始められました。独立した病棟が作られたのは聖隷三方ヶ原ホスピスが最初です。抗ガン剤などの薬を使うことがほとんどないので、保険収入が少なく、運営は苦しく、寄付で運営されるミッション系の病院が中心でしたが、 90年に制度が改正されて定額性の保険点数がつくようになり、ようやくホスピス病棟が全国に増えはじめました。

 六甲病院の緩和ケア病棟は94年10月に開設されました。全国では16番目で、兵庫県では神戸市北区のアドベンティスト病院に次いで二番目です。

 以前は結核病棟だったのですが、結核患者が少なくなって閉鎖するが代わりにどんな施設にしようかというとき、当時の瀬藤院長が緩和ケア病棟に改装しようという方針を出されました。瀬藤院長は消化器外科が専門で、ガンでターミナルの患者のケアをしたいのだが、一般病棟では術前、術後の患者や急患に手を取られ、ターミナル患者に時間がさけないことを痛切に感じておられました。

 ある日、完成期医療研究会というホスピスの関係の勉強会が神戸で開かれて、その会場で瀬藤先生にばったりお会いしました。以前私が神戸労災病院に勤務しているとき、私が麻酔を担当し瀬藤先生が手術される、ということがよくあったのです。

「いっしょに帰ろうか」と声をかけられて帰る途中、瀬藤先生から「緩和ケア病棟を作ろうと計画し、人を探している。どうだ、六甲病院に来ないか」と誘われました。

 ありがたかったのは、六甲病院に籍を移す前から、緩和ケア病棟をどんなふうにしようかという相談や会議に参加させてもらえたことです。いろんな注文をよく聞いてもらいました。

 部屋のドアを、ベッドごと出入りできるように30センチほど広げてもらったり、トイレと病室の段差をなくしてもらったり、和室の病室を二部屋つくってもらいました。ベッドで寝たり、畳の上の布団で寝たりできます。付き添う方も楽なようですね。照明も、蛍光灯は顔色が悪く見えるので、白熱灯にしてもらいました。病院というのではなく、マンションの一室という感じを出したのです。

 ピンクのカーペット、ピンクのカーテン、ピンク系の壁紙を提案したら、これには院長をはじめみんなから「ピンクの病棟なんて聞いたことがない」と抵抗がありましたが、押し通しました。ドアを木製にしたかったのですが高くつくので、木目調の化粧パネルを張ることでがまんしましたが、くつろげて安らぎのある緩和ケア病棟ができました。

 ここでは「緩和ケア病棟」と呼んでいますが、「ホスピス病棟」と名付けているところもあります。末期の患者さんだけを見取るところだという印象があるので、ここに来られる患者さんは初めは強いショックを受けられるようです。表情が緊張し、こわばっている方が多いですね。七、八割の方が、入院の前日は眠れなかった、とおっしゃっています。あるおばあさんは、寝台車で病院の坂を上がってくるときに「ああ、姥捨山に送られるんだ」と思われたそうです。移って来たその日は表情がこわばって落ち着かない様子ですが、一週間もすると症状が楽になり、みなさん落ち着かれます。

 この病棟は、入院した人すべてが終末を迎えるわけではありません。一割から三割くらいの方は症状が改善して帰宅されます。在宅診療のドクターもいて、自宅を訪問してお世話するシステムもあります。

 しかし、もう治療がムリだ、と判断された方々に、痛みをやわらげ、最後までその人らしく生き抜いてもらえるように力を貸す病棟ですから、生と死の厳粛な場面に立ち会うことが数多くあります。自分の人生を自分で完成するというしっかりした意志をもって立ち向かわれる方がたくさんいらっしゃいます。後に残される人たちのためにきちんとした心くばりを していかれる方もあります。

2)残される妻のケアを確保する時間を           

■遺言書にサインするまでは

 83歳の男性のKさんもそんな一人でした。肺ガンが進んで、もう抗ガン剤などによる化学治療は難しい、と別の病院からの紹介で、7月末にこちらの病棟に転院してこられました。西宮で奥さんと二人暮らしで、息子 さんと娘さんは東京と横浜にいらっしゃいます。

 チェックのガウンを着て、上背のある、迫力のある顔付きで「息子や娘の世話にはなりたくない。自分でできることは自分の力でやり通したい」としっかりした口調で言われました。病室では有線放送のクラシック音楽を聴いたり、ときおりボランティアが病棟で開く音楽会に顔を出したりして楽しんでおられました。

 8月の中ごろ、息苦しさが強くなり、腫瘍がみるみるうちに大きくなってきました。Kさんは担当医に「これでは回復は難しいですかね。しかし、もう少しやり残したことがあるので、しばらくもたせてくれませんか。できればちょっと外出もしたいのですが」とおっしゃっていました。財産の整理をしておきたい、ということです。弁護士に会って遺言状を書き改め、公証人役場に行く用がある、とおっしゃるのです。しかし、外出は無理ですよ、病院に来てもらってできないでしょうか、と言いますと、あちこちに電話をして打ち合わせておられました。

 「苦しまずに死ねるように願っています。でも、その日が今日だとか明日だとか言われると、それはちょっと近すぎて、私もめげるでしょうなあ」と笑って「もうしばらく時間がほしい」とおっしゃっていました。

 顔色が紫色になり、呼吸はゼイゼイいって、とても苦しそうなのですが、トイレだけは何としても自分で行くのだと必死でがんばっておられました。歩くのがよほどつらくなったのでしょう、ものを食べるからトイレに行く必要が生じるのだから、食べるのはやめようと二回ほど食事を断たれたこともあります。

 8月23日に「あした遺言書にサインする段取りになった。それが終わるまでは鎮静剤を使わないでください。眠ってしまいたくはないから。危篤になっても妻には連絡しなくていいです。恐らく私がどんな状態なのか判断できないだろうからな」ともおっしゃっていました。

 「妻は、この春からアルツハイマー症状が出てきて、周りの状況が理解できなくなっているのだ」とおっしゃるのです。そういえば、病院で二、三度お見かけしたのですが、にこにこ笑っていらっしゃる様子がちょっと変だな、と思ったことがあります。Kさんが遺言状を書き換えたのは、自分が亡くなっても、妻がちゃんとしたケアが受けられるように財産を後見人に託す手続きをするためだったのです。残される妻のために最後の力を振りしぼっておられたのですね。

■いい気持ちで眠れました

 それから4日目の朝、ちょっと来てほしいと呼ばれて病室に行くと「苦しいので鎮静剤をください」と言われました。「2、3時間休むようにすることもできるし、もう少し長く効くようにもできます。 非常に体力が弱っている場合は、鎮静剤の点滴を止めても、目がさめないこともあります」と説明すると「それもいいけど、長く眠っている間に便や小水をしてしまうとはずかしいからこれは困る。一時間半ほど眠らせてほしい」とおっしゃいます。

 患者さんは血圧も下がり、脈拍も少なくなって、終末が近づいていても、下の世話を他人にされるのをつらく思われます。

 Kさんは目を覚ますと「いい気持ちで眠れました」と私たちにお礼を言われました。午後になって再び息苦しさが出現し、ベッドのそばの息子と娘さんに、紙を出してくれと手まねで伝え、ボールペンで「らくにしてください」と書かれました。息子さんがひげをそってあげたあと「ねむらせてほしい」と合図し、それから一時間後に亡くなられました。

 実に、自分の去り方を自分で決める見事な方でした。

 一般に、このような状態になると、女性の方がしっかりしていて、男性の方がおろおろするというイメージがあります。女性は「自分がいなくなると夫は家のことが分からなくなって困るだろう」と、最後まで夫や子どものことを心配して、意識を強くもつのでしょうか。

 Kさんは、意思表示をきちっとして、妻の世話を気にかけ、子どもたちの負担を大きくしないように、家族へのやさしさを保ち続けておられました。まさに有終の美をかざるにふさわしい強い意志の持ち主でしたね。

3)あすも命があると思える幸せ

■だめになる前に後任を

 私たちは、毎日悩んだり、反省したり、つらい日々が多いのですが、すばらしいお話をしてくださって、逆に私たちを励ましてくださる患者さんもいらっしゃいます。

 卵巣ガンのリンパ節転移で、ガン性の腹膜炎だった54歳の女性ですが、この方は保健婦の資格もち、企業の診療所で働いている現役のナースでした。ここに入院される3年前に手術され、その後の化学療法でガンを押さえ込めたと思っておられました。けれど 2年後に首にグリグリができて、それを取るときにガンの転移だと分かりました。その後急速に転移が進み、足が象の足のようにパンパンに腫れて、歩きづらくなっていました。

 それでも働いておられたのですが、ご本人がこちらの病院に来られて「私、いつまで働けるでしょうか。だめになる前に後任のことをきちんとしておきたいのです」と言われました。私は、既にそのときには限界に近いと思いましたので「症状はこれから進むでしょうから後任が見つかり次第入院された方がいいですよ」と勧めました。

 それから二カ月後に入院されたのですが、足の腫れのほかに、便意があるのだけど下痢便がちょっとしか出ないのです。ご自分でも、直腸にも転移しているのだろうと判断されていました。足もおなかも首も腫れているのですが、気がしっかりした人で、車椅子で病棟の中を走り回っておられました。

 私はその様子を見て、まだ三カ月くらいは大丈夫だと思っていました。「人工肛門をつくりませんか。そうすれば便意を気にせず食事を取れますから」と勧めました。けれど薬が効いてきたのか、少し楽になられたのでその話はそこでとまっていました。

 彼女は木彫が趣味で、そのときたまたま広い部屋があったので、そこを病室兼作業所にし、タンスの木彫を始められました。三段の引き出しがあって、二段まではきれいな鎌倉彫りがしてあり、三段目に取り組み、いい時間を過ごされていました。

 ところが、著効していたステロイドホルモン剤も次第に効果がなくなり、一カ月半経つとおなかや足が再び腫れてきて腸閉塞状態になりました。そこで本人と家族に相談し、外科に一日だけ転科してもらって人工肛門をつくることにしました。

■リビング・ウイルが生かせたか

 おなかを開けたときに、腹水が600ミリリットルほどたまっていました。思っていたより多く、「あっ、しまった」と思いました。でも手術後は、腹水と腸内容が減ったため静脈やリンパ節を圧迫しなくな り、足の腫れもすうっと引きました。それはよかったのですが、二週間後に抜糸したとき、傷が離れてしまって、傷から腹水がもれてくるという状態になってしまいました。それからは彼女につらい時間が始まり、私も後悔と迷いに悩むことになりました。

 最初の段階の、薬が効いてまだ体力があって楽なときに人工肛門をつくっておけばこんなことにならなかったのではないか、という後悔です。もう一つの思いは、腸閉塞になったときに、メスを入れないでそのまま見守っていけばよかったのではないかという悩みです。このことがいまでもつらい思いとして残っています。

 まだ入院されて早い時期に、私が「腸閉塞の可能性がありますね。お食事が取れないようになったら高カロリーの点滴をしましょう」とお話ししたとき、彼女は「点滴はいりません。腸閉塞になってしまったら、そのときまでが自分の命だと思っています。私は尊厳死協会にはいっていますからそのようにしてください」と言われました。

 尊厳死協会というのは1976年に医師、弁護士が中心になって創設された「尊厳死の宣言」、リビング・ウイルと言っていますが、末期医療についての要望を書面にして登録し、保管している団体です。

 英語でウイルというのは遺言書のことで、遺言書は死亡してから効力が生まれますが、リビング・ウイルは「生きている間の遺言書」です。その要旨は「いまの医学では治せない状態になり死期が迫って来たとき、いたずらに死期を引き伸ばす措置はいっさいお断りします」「ただし、苦痛を和らげるための医療は最大限にお願いします」というものです。日本では 約七万五千人が加入しており、尊厳死協会に入っていて、亡くなった人の九六%は本人の意思が尊重されているということです。

■未完の木彫りのタンス

 彼女は病気でしんどそうでもよくしゃべる人でしたが、ご主人は対照的に寡黙な人で、黙って付き添っておられました。娘さんはドイツ人と結婚してドイツに住んでおられました。娘さんからはハーフの息子さんの写真がたびたび送られてきて、タンスを彫っていないときには私たちに「かわいい孫でしょう」と見せてくださっていました。

 娘さんがお孫さんを連れて病院に見舞いにいらっしゃったのは、彼女が亡くなる8日前で、久しぶりに見るお孫さんにとても喜んでいらっしゃいました。ドイツ人の娘婿も「愛する彼女の母親の世話をしたいからいっしょに行く」ということだったようでしたが、彼女は「言葉が分からない人に来てもらってもねえ…」とちゅうちょしていました。でも、彼は追っかけてやって来ました。息子さんが一人東京におられるのですが、息子さんも泊まり込んで世話をされていましたね。

 彼女の木彫のタンスはまだ完成していませんでした。だけど、病状は、ご家族に「これから先のことは、『日』の単位で考えてください」と言わなければならない状態になっていました。それから二日後の朝、脈が触れなくなって静かに亡くなられました。

 彼女はリビング・ウイルをしっかりもっている人で、私は彼女の思いをしっかり汲んでいるつもりだったのに、振り返って見ると本当にそうなのだったかな、という反省があります。

 「点滴はいらない。腸閉塞状態が出たらそれまでの命」とご本人は言われていたのですが、いざそうなると、吐いたりむかむかしてつらい状態なので、私は「人工肛門をつくりましょう」と言ってしまい、彼女も「楽になるのでしたら」と手術を受ける気になりました。そのときのことを振り返ると、お互いに魔が差したのではなかったか、と思ってしまいます。

 終末期に手術をするのは、手術によって二、三カ月は余命が確保できるという確信がなければならないと思っていますが、あのとき私は、「とりあえず今の症状が楽になれば、 」とあせったのではなかったかと反省しています。

 彼女の葬儀の後、息子さんが病棟に来られて「お役に立ててください。遺言にありましたから受け取ってくださらないと困るのです」と二百万円を緩和ケア病棟に寄付されました。働きながら貯めておられたへそくりだったということですが、私たちの病棟にとって最高額の寄付であるとともに、 御主人が働いて得られたお金であることにとても感動しました。

 彼女は「あすも命があると思える幸せを感じています。でも、今晩命がなくなってもかまいません」と、私たちを励ます言葉も残してくださっています。こうした言葉のプレゼントをいただくと、私たちは「人生の完成をめざすお手伝いにがんばろう」と元気が出てくるのです。

 未完のタンスは、彼女が習っていた鎌倉彫りの先生が完成されて、一年後の法要の席に飾られている写真を息子さんが送ってくださいました。

 

 

 

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             最終更新日 : 2011/06/24